父が倒れた時
私の父は、25年前55歳の時に、脳梗塞で亡くなりました。
その日は、沖縄で旧盆のウークィの日で、お盆の最終日でした。
当時、両親はすでに離婚をしていて
父は大阪で、直ぐ下の弟と一緒に暮らしていましたが
弟が出て行き、しばらく疎遠になっていたようで
ずっと、一人で暮らしていました。
33年前のある日、職場の花見で、お酒をたくさん飲んで
転んで頭を打って、倒れて入院しました。
大阪のおばさんから連絡が入り、下の弟は、韓国に留学していたので
大阪の病院に、私と妹が行くことになりました。
当時は、私も妹も、子どもが小さくて
私は、長男を母に預けて、生後3か月の長女を連れて
妹は、2歳の長女を連れて
1週間ほど、大阪に世話をするために滞在しました。
それは、それは、とても大変でした。
行く前日に、沖縄の伯父さんとおばさんから
餞別とお土産にポーク缶を渡されました。
当時は、ポークを本土でも買えたかどうかは、憶えていませんが
買えたとしても、かなり高かったと思います。
沖縄の伯父さんとおばさんは、私たちや子ども達によくしてくれました。
ありがたくて、いつも感謝しています。
しかし、この時ばかりは、小さい子どもを連れて行ったので、とても困りました。
それでも、頑張って旅行用バックのカートンを、交代で引っ張って行きました。
今考えると、ゾッとします。先に、ポークだけ送るということもできたのに
その時は、全く気づけませんでしたが
自らわざわざ、難儀をしていたんだと気づきました。
そして、到着して
病院へ行く時は、大阪の叔父の家に、娘を預けて病院へ行き来しましたが
娘は、母乳しか飲まなかったので、ミルクを飲まなくて困りました。
それでも、やはり、息子より娘の私たちの方が
何かと世話をするのは得意なので、妹と2人で頑張りました。
父が大嫌いだった
私は、ずっと父のことが大嫌いでした。
お酒が大好きで、いつもたくさん飲んでいました。
母が、体のことを思って「飲み過ぎないで」というと
「わしが稼いだ金で、飲んで何が悪いのか。わしの勝手だ」と怒っていました。
また、プロ野球の「巨人」の大ファンで、テレビで試合を観ている時に
少しでも騒ぐと、怒られました。(大阪なら阪神ですが・・・・・笑)
しかも、巨人が試合に負けると、機嫌が悪くなって、家族に八つ当たりしていました。
本当に迷惑でした。そのくせ、外面はとても良くて
来客には、とてもおもてなしをします。だから、他人からは良い人です。
いつも父の機嫌を伺うのが、もの凄く嫌で嫌で、たまりせんでした。
両親の喧嘩で、喧嘩というより、父の方が一方的で
母に手を出しているのを、度々見ていました。
弟たちや妹も一緒でした。
それに、母が、買い物から戻ってくるのが遅いと
時計をずっと気にしていて
戻って来ると「遅い、買い物に行くのに何時間かかるんだ」と、怒鳴っていました。
私たちがケガをすると、母を怒っていました。
私は5歳くらいの時に、親戚の家で頭をガラス戸でぶつけて、ケガをしたことがあり
病院に連れて行かれ、頭に白い包帯を巻いて帰って来た時に
父は、母を凄く怒っていました。
ある時、下の弟と妹と2人で手をつないで
一緒に、2階の階段から転げ落ちたことがあって
弟は3~4歳だったと思いますが
弟は幼いながらに、母をかばうため、ケガをしたことを隠そうと
包帯を外して、寝たふりをしていたことがありました。
子どもは、多少のケガはつきものなのに
子どもが、気を遣うほど、母を怒る父でした。
母は、専業主婦で4人の子どもを見ていて、大変だった思います。
それを父には、全くわからなかったようです。
母が、父と離婚したいと知った時は、正直ショックでした。
その時の私は、世間体を気にしていたらだと思いますが
子どもの頃から、父と母と見ていたので、結局は賛成しました。
父は、妹たちには、お小遣いを送金していたようですが
母の味方をしたからか、私には、成人式の時にも何もしてくれませんでした。
だから、当時は父が大嫌いでした。
父を許せた
しかし、今は違います。父を許せました。
病気になって、太っていた父が痩せていて
とても、弱々しくて、小さく見えて、とても不憫に思いました。
とても、寂しかったと思います。
当時は、「罰が当たったんだね」と思いましたが
もしかしたら、病気になって、いろいろ考えて、反省したかもしれません。
相手があることなので、遅すぎますが
どちらにしても、父は亡くっているので、どうすることもできません。
でも、もう父を許しました。今は、全く恨んでも、憎んでもいません。
なぜなら、今の母は、今の父に出会て、幸せになっているからです。
それに、父がいてくれたから、生まれて来ることができました。
もちろん、母も同じです。
父が一生懸命に働いてくれたおかげで、学校にも通えたし
ご飯を食べることができたので、今では、とても感謝しています。
家では嫌な父でしたが、一生懸命働いて、稼いでくれました。
子ども頃、どこの家にも電話がなかった時代で、アパートに住んでいた時
アパートの電話の呼び出しが、ブザーでしたが
内には、黒電話(当時の電話加入権は30万円ほど)がありました。
カラーテレビもクーラーもありました。
高校1年の時のお小遣いが、4千円ほどあって
当時は、結構いい金額だったので、友だちに羨ましがられました。
大阪万博の「ソ連館」の塗装は、父が下請けで作りました。
思い出せば、嫌な思い出だけではなかったです。
良い思い出もありました。
それほど、辛い思い出や嫌な思い出の方が、強く残るものなんですね。
私も、もっと早くそれに気づいて、許すことができていたら楽だったと思います。
今では父も、元夫も許すことができたので、心が楽になりました。
許せたことによって、私の方が救われました。
本当に良かった!良かった!良かったです!
還暦を迎えたので、父のことを記事にしたくなりました。
では、本日もお読みいただき、ありがとうございました。感謝いたします。
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