沖縄版宝塚
私は、今から41年前の19歳の時に「乙姫劇団」に入団して、2年くらい団員でした。
17歳の年に、大阪から沖縄に帰ってきて、何かしたくて
ちょっとだけ、琉球舞踊を習っていました。
でも、宝塚歌劇が好きだった私は、あまり好きになれず
楽しくありませんでした。
沖縄では、簡単に宝塚歌劇を観ることができなかったので
大阪に帰りたいと、何度も思いました。
そして、ひょんなことから、沖縄にも宝塚歌劇団みたいなところが
あることを知り、友人の紹介で「乙姫劇団」の当時の団長の間 好子先生に会いに行き
なんのテストもなく、入団を許可されました。
乙姫劇団では、琉球舞踊と民謡、沖縄芝居をしていましたが
沖縄芝居は、琉球王朝時代のもので、全て方言でした。
大阪から来た私には、チンプンカンプンでした。
まるで、英語を聞いているような、日本語ではない感じでした。
宝塚と全く違うと、なかなかなじめませんでした。
当時、食事をしながら、歌や踊りが観れる「沖縄迎賓館」という所が
那覇市にありました。(現在はありません)
そこのステージが、私のデビューとなり、琉球舞踊をいくつか踊っていました。
ステージは、1日2度あり、年中無休でした。
それが、何カ月間かの契約でした。
19時からショーが始まるので、毎日17時頃に楽屋入りしていました。
1人で髪を結えない、私たち若手のかんぷー(沖縄の髪型)は
大先輩が毎日結ってくれました。
舞台化粧は、自分でしていましたが、慣れなくて下手でした。
怖い先輩にしょっちゅう叱られていました。
しかも、方言だったので、方言を聞き取れなかった私は
別の先輩に通訳してもらっていました。
方言が全くわからなかった私は、先輩方から
「ウチナーグチヌワカラン、ウットゥンチャー(方言をしらない後輩)」
と言われていました。
乙姫劇団では、先輩のことを「〇〇姉さん」と呼んでいました。
母と同じ年の優しい先輩がいて、その先輩は可愛がってくれました。
怖い先輩と優しい先輩の2人は、男役でした。
普段は、髪が長くてアップしているので、普通のおばさんでしたが(失礼ですね 笑)
化粧をして衣装を着ると、今でいうイケメンに変身していました。
そのギャップに驚き、かっこいいと思いました。
沖縄芝居で、1度舞台に出たことがあったのですが
練習も、そんなにしていないのに先輩方は、凄く上手で
舞台に出ていて、あまりに感動して、涙が出ました。
間 好子先生は、身長は153cmくらいだったと思いますが
身長の低さを感じさせないくらい、カッコよくて
二枚目も三枚目も、こなせる素敵な俳優でした。
成人式の時「沖縄迎賓館」 の舞台で、一緒に写真を撮ってもらいました。
そして、その年に半年間の琉球舞踊の仕事があって
福島県の旅館で、毎日ステージで踊っていました。
仕事を終え沖縄に戻って、しばらくして退団しました。
20年前の2001年10月13日(享年73歳)に
間 好子先生が亡くなり、告別式に行きました。
そして、最後のお別れと、感謝を告げました。
その後に、乙姫劇団が解散して、後身の「劇団うない」ができたそうです。
乙姫劇団も素敵な劇団でしたが、やっぱり私は、宝塚の方が好きでした。
今まで、乙姫劇団に入っていたことをすっかり忘れていました。
今日、なぜかわかりませんが、急に思い出し記事にしました。
では、本日もお読みいただき、ありがとうございました。感謝いたします。
コメント
『乙姫劇団』聞いたことがあります❗️そこの劇団員の経験もあるとは、ぷちひろさんの人生経験の豊富さに驚かされます。
やんばるさん
いつもコメントありがとうございます。
なぜかわかりませんが、乙姫劇団にいたことをすっかり忘れていました。